特別寄稿

夢の王国建国宣言
憲法序文および憲法全十二条概要

※文責:小林敦

●「夢の王国憲法」序文

人類は今まで、様々な「地図」を描いてきた。地球の地理的な地図はもちろん、生命進化の系統樹、DNAの解析図、宇宙の地図、「歴史」という名の時間的な地図・・・。
最後に残された地図は「心(内面)の地図」ではないだろうか。
もちろん、その試みは古くからなされてはいる。いちばん古くからの試みは、宗教やシャーマニズムが手掛けたものかもしれない。心理学や精神分析学はたかだか120年あまり。まだ統合的な「心の地図」は描けていない。
ましてや、「夢の地図」となると、まだ夢にもみられていないのではないだろうか。誰でも毎夜経験しているような日常的な現象であるはずの夢に関する地図作りは、他のものから遥かに遅れをとっている。
「心の地図」、特に「夢の地図」を描く試みは、「夜の国」という、いまだ謎の多い未開の領域に足を踏み入れ、細部に光をあて、足元を確かめながら手探りで前へ進むような作業かもしれない。

ここでひとつ、たとえ話をしよう。
ある探検家が、あるとき絶海の孤島を発見する。その島は、神秘的な雰囲気をたたえ、地球全体の生命進化から隔絶し、独自の生態系を形成しているように見えた。探検家はその島を「ガラパゴス」と名づけた。
やがて大がかりな調査隊がガラパゴスに入った。しかし彼らは島が発する独自の声に注意深く耳を傾けたわけではなかった。島は表面的に観察され、ときに皮肉の対象とされ、場合によってはねじ伏せられ、その声は揉み消され、あるいは故意に歪曲され、重たく冷たい石の下敷きにされ、その領土はすっかり植民地化され、許されていたはずの独自に進化する権限も奪われてしまった。その結果、ガラパゴスはすっかり観光地と化し、無作法で遠慮えしゃくのない観光客によって踏みにじられてしまった。観光客は、ガイドに案内され、その自然を観察し、娯楽の対象とし、それについてあれこれと噂話はするものの、島が発する声を真剣に聞こうとはしないし、ましてや真剣にそこで生きようとはしない。長続きのしない、かりそめの興味を示すだけである。踏みにじられ、荒らされ、やがて飽きられた「ガラパゴス」に興味を示す者は変人扱いされ、改めて踏査しようとする者は狂人扱いされるようになった。ましてや、その独自の進化をともにしようなどとは誰も思いもしない。

そのようにして作成されたガラパゴスの地図に、本当の意味での人類の居場所は載っていない。そして人はやがて気づく、自分たちはガラパゴスを地球の地図に組み入れたつもりだったのが、結局のところ、自分たちで自分たちの正当な居場所を、ひとつ地球から葬り去っただけだったと。しかし、地図はあくまで地図、いわば現地の「影」にすぎない。全体の地図に何かを描き忘れたからといって、その現地がなくなるはずもない。その存在を、皆が認知しなくなっただけの話だ。
さて、地球を宇宙に、ガラパゴスを地球(あるいは人類全体)に置き換えていただくなら、様々な分野で「ガラパゴス化」が公然と行なわれていないだろうか。
夢の領土(あるいは夜の王国)も例外ではない。
「夢の地図」作りは、ガラパゴス探検の二の舞になろうとしている。このすっかり荒らされてしまった地図上の「空白」の領土を旅するガイドブック、マナーブック、その独自の生態系を破壊しないためのルールブックが必要だ。こうした「手引書」は、今までも偉大な先人たちによって試みられてはきただろう。それらに敬意を払いつつも、21世紀には、まったく新しい基本理念にもとづく「手引書」が必要だ。なぜなら、「夢」というこの「ガラパゴス島」は、地図作りが停滞している間にも、少なくとも人間の意識が進化しているのに歩調を合わせるようにして同時に進化を遂げているからだ。また、様々な地図作りによって、地図を描くノウハウ自体も進化している。

「夢の王国憲法」というかたちで試みようとしているのは、いわば「夢学概論」である。それと同時に、夢の王国に「民主主義」を樹立することである。ここで主権を持つ「民」とは、その王国の「領主」であると同時に、国民としての「夢」そのものでもある。その王国の民主化を実現しようとする「憲法学者」は、主に自分がみてきた夢をケーススタディとし、夢学の基本的なルール(法則)について長年考え続けてきた。
言い換えれば、この「憲法学者」は、自分の内側にある「ガラパゴス」に分け入り、踏査し、そこを住処とし、その住処の整備を続けてきたのだ。
もちろん、夢のサンプル数で言えば、何万例という強者収集家もいるだろう。しかし問題はそのバリエーションとともに、時間の経過だ。長年の間、「自分の中のガラパゴス」を定点観測してきた実績では、誰にも引けを取らないこの憲法学者は、夢の王国憲法を成文化するにあたり、夢の法体系に「時間」の概念を持ち込むことを基本理念に据えたのである。なぜなら、ガラパゴスの進化が、実は地球全体の進化に単に歩調を合わせるだけではなく、その進化を牽引している可能性についても思い至ったからである。

夢の王国に民主的憲法を制定する第一義とは、昼の国の暴走から夢主の主権を保護することであるが、同時に、踏みにじられ、主権を奪われ、尊厳を傷つけられた「ガラパゴス島」の復権と保護の意味合いも含まれる。
もちろん、この夢の王国憲法は、素案の段階と考えていただいて構わない。何しろ、世界初の試みだろうからだ。今後、多くの研究者たちの検討を経て練り上げられ、改正されていくことを望む。

夢の王国憲法全十二条概要

文責:小林敦

※夢の王国憲法の全文はこちら(会員サイト

<第一条>「夢は無意識からの手紙」
〇夢は、夢主に宛てて書かれた無意識からの手紙である。
〇夢主の無意識は、その人の人生の意義、乗り越えるべき課題、もっともその人らしい生き方、「世界内存在」としての本人、といったことすべてを知っている。
〇あらゆる夢の根底にあるのは、『あなたが今ここでこうして生きていることには、重要な意味がある』ということ。
〇夢という手紙の封を切らずにいることは、自分で自分の人生を無意味なものにしていること。下手をすると、他人の人生を生きることになる。その弊害は「病」や「対人トラブル」という形で顕れる。
〇夢という手紙は、(基本的には)「象徴」という名の暗号で書かれている。その暗号を解けるのは夢主だけ。
〇夢の所有者は、あくまで夢主である。いかなる夢主も、自分の夢の所有権を決して他人に譲り渡してはならない。夢の所有権譲渡は、自分の領土への侵略を許すことに等しい。
〇他人の夢の所有権を奪おうとしたり、勝手な解釈や意味づけをしたり、勝手に内容を捻じ曲げたりすることもしてはならない。
〇無意識のレベルで他人をコントロールしようとする者は、自分の無意識によって裁かれることになる。

<第二条>「夢を話すことの意味」
〇あらゆる人民は「昼の国」と「夜の国」の両方に住民登録している。両国は平等に尊重されるべきである。あらゆる人民は、それぞれの「昼の国」と「夜の国」の両方の「統治者」である。
〇昼の国の統治にばかりかまけている人民は、夜の国の法で裁かれることになる。
〇夢をみるという行為は、夢主の昼の国に対する統治を、夜の国の法でもって見直す作業である。
〇自分がみた夢について他人に話すことは、自分の「夜の国」の迎賓館に賓客を招くことを意味する。その「おもてなし」に背伸びやウソ偽りがあってはならない。
〇他人の夢の話を聞くことは、他人の夜の国の迎賓館に賓客として招かれることを意味する。賓客は、他人の夜の国に敬意を払い、そのもてなしに感謝し、そこに供されたすべてのものを、ただ有り難く「味わう」べし。そこにいかなる批判も審判も加えてはならない。

<第三条>「夢の扱い方3種類」
〇「夢製造工場」から出荷される夢という製品には、大きく分けて次の3種類があり、それぞれに取り扱い方が異なる。それぞれをどのように取り扱うべきかは、夢そのものに問いかけるべし。
・昼の国への亡命を希望する夢
・夜の国への残留を希望する夢
・素材そのものが加工されずに出荷される夢
〇昼の国への亡命を希望する夢は、昼の国において夢主に迫っている何か重大なことを伝えたがっている可能性がある。
〇夜の国への残留を希望する夢は、夜の国の「法」そのものについて、夢主に伝えたがっている可能性がある。
〇素材そのものが提供される夢は、その素材の「持ち味」そのものに注意を払うべし。類似する他の素材との味の違いが重要である。それは、夢主に足りない「心の栄養素」である可能性がある。そこで、素材そのものを味わうことで、意味を解釈する前に、自分の血肉とすべし。
〇夢の解釈には、夢主の成長段階が大きく関与している。したがって、ドリームワーカーは、そのときのドリームワークで夢主がワークに供することを選んだ夢こそが、その夢主にとってのその時点での最良の選択であると思うべし。同時に、そのドリームワークによって提示された夢の意味は、あくまでその時点での意味であることを肝に銘じるべし。夢主の成長段階に応じて、同じ夢の意味も変化する。

<第四条>「昼の国と夜の国の違い」
〇昼の国に対する夜の国とは、実像に対する「鏡像」(富士山に対する「逆さ富士」)ではない。夜の国は昼の国よりも広くて深い。昼の国が「左脳的」で夜の国が「右脳的」なのではなく、昼の国が左脳に偏りすぎている反面、夜の国はバランスがとれている。昼の国と夜の国は実像と虚像の関係なのではなく、昼の国は夜の国の植民地である。昼の国の歴史は二元論・二項対立の歴史であるのに対し、夜の国の歴史は統合の歴史である。
〇たとえば、昼の国では「愛」だけが尊重され、「憎しみ」や「恨み」などは夜の国へ追いやられる傾向がある。夜の国には愛も憎しみ(恨み)も両方併存している。
〇たとえば「常識と非常識」といった二元論や二項対立のうち、昼の国が夜の国へと追いやった片方こそが、昼の国において(たとえば「対象の定かでない被害者意識」といったかたちで)現実化する。

<第五条>「夢と魂の関係」
〇夢にとって魂とは、「夢製造工場」の工場長のようなものである。夢の読み解きとは、工場長の意図を読み解くことである。
〇魂は通常は夜の国に住んでいるが、本来は昼の国の住人でもある。魂にとって夜の国は一時的な「避難所」である。
〇肉体は船、心は舵、魂は羅針盤である。肉体は心が舵を切った方向にしか進めないが、心は揺れ動く。最終的に方向性を決めるのは魂だが、魂は肉体の事情を忖度しない。そこで心が魂と肉体の調整役を務める。
〇魂は、肉体に宿る前から存在している。心は、魂が肉体に宿った後に、魂と肉体の両方の「面影」をもとに練り上げられる。
〇魂は、宿主がどのような意図で、生まれてくる肉体、両親、国と時代を選んだかを知っている。しかし魂は、宿主の人生の最終目的地までは知らない。最終目的地が含まれる大まかな地図を携えているにすぎない。
〇人生航路の大まかな地図は夜の国の法によって描かれているため、その地図でもって昼の国を生きるには、ドリームワークなどによる置き換え、読み替えが必要となる。
〇魂が目指す最終目的地とは、「海」そのものである。

<第六条>「夢と友情を結ぶ」
〇自分の夢と友情を結ぶ(一緒に遊ぶ)前に、いかなる夢を読み解くことも、ドリームワーカーになることもしてはならない。
〇夢と友情を結ぶには、まず夢の方に視線を向け、夢に対する意識のギアを一段上げることによって、夢の記憶力や鮮明度、夢との親密度をアップさせること。
〇夢の学びを深めることによって、夜の国の成り立ちについて学び、夜の国の景観から昼の国を眺めることによって、昼の国の絶対性(絶対制)から解放される。それによって、人間としての度量が増す。
〇夢の学びが進むと、夢の中で憧れのスターと魔物が弁証法的に統合される、といったことも起こってくる。
〇夜の国においては、主体と客体はしばしば入れ替わる。
〇有能なドリームワーカーは、クライアントをまず夢と遊ばせる。
〇カウンセラーやドリームワーカーがクライアントの夢を扱うとき、それがクライアント個人の「聖域」に属するものであるという前提に立たなければならない。

<第七条>「夢は時空を超える」
〇夢には、夢主の過去の記憶(過去生の記憶も含む)だけでなく、「未来の記憶」を含む可能性もある。
〇夢の王国には、時間の概念も空間の概念もない。夢はいわば、永遠と無限を起源とする。
〇違う時代の違う国の民族が、同じような夢をみるように、夢には究極的な普遍性がある。
〇「集合無意識」や「神話(元型)」は、夢の材料貯蔵庫だが、夢にとって時間とは、いわば夢がよって立つ「次元」を表している。夢の王国は多次元を股にかけている。
〇空間が多層的であるように、時間もまた多層的である。
〇夢の中では、過去も現在も未来も「同時に」存在する。時間の流れは一定方向ではない。ルービックキューブのパーツが縦・横・奥行きのどの方向にも自由に動くように、夢の中で時間はどの方向にも動く。
〇夢は「今ここ」を立ち位置として、過去にも未来にも手をかけている。原理的には、夢の通路を通して、過去へ出向き、過去に手を加えることもできるし、未来へ出向き、未来に手を加えることもできる。
〇夢の王国においては、昼の国における肉体ではない肉体(魂の乗り物)を手に入れる。その肉体でもって、夢主は過去と現在と未来を串刺しにする多次元軸に乗り、時空を旅する。
〇夢において、夢主は死と再生を繰り返す。そのプロセスによって、夢主は今生の人生を選んだ意図(魂の意図)を更新する。この更新作業は、夢主の人生の地図をバージョンアップさせ、ルービックキューブを扱う手つきを上達させる。
〇夢によって時空を超え、特に時間が多層的であるという実感を持つことは、時間の多層的構造自体に、夢主が関与する必要性を暗示している。つまり、今生の人生の中に、死と再生のサイクルを組み入れる必要性である。

<第八条>「特定の夢解釈理論にとらわれてはならない」
〇夢の全体像に触れたいなら、そして夢のメッセージの真意に触れたいなら、特定の夢解釈理論に固執してはならない。いかなる夢解釈理論も「群盲象を撫でる」の類にすぎない。特に、昼の国の法だけで夢を捉えようとする理論には要注意。
〇特定の理論の妥当性を立証するために夢があるわけではない。むしろ夢には、「あらゆる固定観念からの解放」という目的がある。
〇本来、カウンセラーやドリームワーカーにとっての真の「手柄」とは、いかなる既存の理論にも頼らず、クライアントが自分の力で夢の真意に辿り着くという奇跡の瞬間に立ち会えた、という名誉である。
〇夢辞典で夢のシンボルやキーワードの意味を調べるというもっともお手軽な夢解釈法には、自分の人生そのものも「一般論」で片づけたいという心理、「皆と一緒」というところに安住したいという心理が隠れている。確かに、人間的成長とは、個人性(私は私)から普遍性(皆一緒)へ至るプロセスだが、その方法は夢辞典には載っていない。
〇「夢は象徴表現である」という考えは「ほぼ」正しい。
〇たとえばある夢に、実在の人物であるAさんが登場した場合、そのAさんの意味には、常に次の3つの可能性がある。
・Aさん本人(夢の身体をまとったAさん)
・夢主がAさんに対して抱いているイメージ(何かしらAさん的なもの)
・Aさんのイメージが象徴する夢主の要素(Aさんのイメージでしか表現できない夢主の一部)
〇夢がなぜ素材を象徴化するかというと、次の2つのメリットがあるからである。
・象徴化は、一種の暗号化であるため、夢主のプライバシーが保てる。
・象徴化にはコミュニケーション・ギャップが起こりにくい。

<第九条>「夢の中では死と快楽へ向けて突き進むべし」
〇夢の王国では、夢主はそれ専用の身体を手に入れる。夢の身体は、スーパーボディである。ただ頑強なだけでなく、全身が敏感なセンサーでもある。
〇夢の中では、たとえ死の危険があろうとも徹底的に大胆に、たとえ常識やタブーを破ることになろうとも徹底的に快楽主義者として振る舞うべし。
〇夢の中では、一皮むけて生まれ変わるためにいったん死ぬ。死は再生の準備である。
〇夢の中で、死と快楽に向けて大胆に振る舞えるようになるには、次の6段階のプロセスで夢の意識を進化させる必要がある。
1.無記憶夢
2.断片的記憶夢
3.統合記憶夢
4.自覚夢(明晰夢・覚醒夢)
5.創造的自覚夢
6.超越的自覚夢
〇誰もが、悩み、葛藤し、苦しむ状態から「悟り」の状態へ向かう道を歩んでいる。どこで歩みを止めるかを、歩む前から決める必要はない。
〇夢の中で大胆かつ快楽主義者として振る舞わないと、その夢は悪夢に近づく。
〇夢の中で自覚的に振る舞えずに「悪夢」になりかけている夢の続きをみてエンディングに修正を加える方法として、次のものがある。
・その晩のうちに二度寝して、続きをみる。
・翌日の睡眠時に、続きをみる。
・ある種の瞑想状態(変性意識状態)に入り、そこで意識的に続きをみる。
〇夢学の観点からすると、悪夢を悪夢のまま放っておくことは、あまり好ましくない。なぜなら、悪夢とは、夢の学びの途中経過(いわば中間報告)にすぎないからだ。

<第十条>「夢と現実を認識する5段階進化」
〇夢をみることは、睡眠状態の一部ではない。夢は覚醒と熟睡の間にあるのではない。夢をみることによって、私たちは夜の国に覚醒する。
〇夢とは部分的な覚醒でさえない。夢をみているとき、覚醒時よりも精神や感覚の働きが鈍るわけではない。
〇夢によって夜の国に覚醒する(いわば夢において完全に覚醒する)ためには、次の5つの段階を経る必要がある。これらの段階ごとに、克服すべき課題があり、その課題の克服に失敗すると、それぞれ特有の病理あるいは機能不全(適応障害)が起きる。
1.夢と現実の未分化段階
2.夢と現実の分裂段階
3.夢と現実の差異化段階
4.夢と現実の統合段階
5.夢と現実の超越段階
〇第五段階にある人は、夢と現実の両方を内側に内包しつつ、なおかつそれらを超越する視点に立っている。昼の国も夜の国もその人の内部に存在している。この人はあらゆる法体系の外にいて、究極的に自由である。あらゆる「二元論」「二項対立」を超越し、夢においても現実においても、主客の逆転もなく、常に同じ覚醒状態にある。

<第十一条>「夢の階層構造」
〇人間関係のトラブルなど、微妙で複雑で極めて現実的な問題に対処するとき、ある意味非現実的で、荒唐無稽で、突拍子もないような方法、「心の魔術」「心の錬金術」とも呼べるような方法の方が功を奏することがある。それは、夢の中のように大胆で、ある意味非常識で、しかしそれでいて誠実で愛情に満ちた方法である。

以下の図は、人間の意識と無意識の階層構造、およびそれに夢がどう絡んでくるかを示している。外側の層ほど広くて深い概念で、内側の層はそれぞれ外側の層の「内部」を構成している。
夢は、この同心円の外側からいちばん内側へ向けて、それぞれの層からイメージやシンボルを吸い上げながら、夢主の意識の中に流れ込んでくる。それがいわば夢の通路であり生産ラインである。
いちばん外側から順に・・・
〇永遠無限(非二元):時空を超え、あらゆる二元論を超えた世界。
〇多次元宇宙(超ミクロから超マクロまで):物理現象と心理現象をつなぐビッグバン以来のn次元世界。
〇集合(無)意識(人類史、神話・元型):意識・無意識を含む人類開闢以来の情報の堆積。
〇潜在意識(過去生・未来生を含む):個と全体をつなぐ層。個人の過去生の記憶や未来生(の記憶)も含む。
〇個人的記憶(生活歴):個人の今生での記憶領域。
〇日常的意識:いわゆる「目が覚めている状態」と呼ばれるごく限られた日常的な意識。



<第十二条>「魂(夢)、心、エゴの関係性」
〇夢とは、魂の「たくらみ」である。
〇魂は、(夢を通じて)常にあなたを成長させようと目論んでいる。
〇魂のルーツは、生前と死後の世界、すなわち時間と空間を超えた世界にある。
〇心は「先天的自己像」(魂が携えている人生全般のイメージ)と「後天的自己像」(生まれた後の成育環境などから作られた自分のイメージ)の両方を兼ね備えている。魂の「面影」は、後天的自己像にも映り込む。
〇いわゆる「エゴ」と呼ばれるものは、「後天的自己像」の一部(狭い意味で後天的自己像が被った仮面)である。
〇心は先天的自己像と後天的自己像の橋渡し役である。言い換えれば、昼の国と夜の国の橋渡し(外交官)役でもある。
〇魂は、自分の「面影」を宿した外交官としての「心」を、この四次元世界(三次元空間+時間軸)において、自分から細胞分裂させ、それまで「夜の国」しかなかった地球に「昼の国」という新たな「層」(すなわち「深み」)をもたらした。それこそが、広い宇宙の中で豊かな生命の星である地球が存在する意義でもある。
〇魂は、あなたの本質を見抜き、かりそめの人生を許さず、外的要因に関係なく働き、あなたが被っているエゴの仮面を脱がせようとする。
〇あなたの人生の選択にもっとも大きな影響力を与えるのは「魂」であり、その第一の派生物としてあるのが「先天的自己像」である。後天的自己像やエゴは、大樹にとっての枝葉末節の部分にすぎない。
〇「魂→先天的自己像→後天的自己像→エゴ」という力関係が逆転し、エゴを含む後天的自己像が肥大してしまうなら、「あなた」という大樹は極めてバランスの悪い不自然な状態となり、あなたは人生の選択を誤り、健康面にも問題を抱え、周りにも迷惑をかけるだろう。





大高ゆうこ/小林敦対談

ここにご紹介するのは、2017年に行われた大高ゆうこと小林敦による対談をまとめたものである。主に大高ゆうこの夢学に関する遍歴が語られている。
これは、日本夢学会の来歴を示すとともに、向かっていく方向性をも示すものである。

写真入る

※文責:小林敦

<イントロダクション:夢学事始め>

●いよいよ始動するプロジェクト

ついにそのときが来た。
私はこのときをどれだけ待ち望んだだろう。
ついにわが師が、覚悟を決めて動き出すようだ。
あの壮大なプロジェクトが動き出す(いや、動かす)時が熟したのだ。
それは、私が子どもの頃から人知れず密かに暖めてきたことであり、いつしか私の生涯を通したライフテーマともなったことである。
このプロジェクトが動き出せば、間違いなく人類の意識進化(深化)を加速させる一助となるだろう。

それは「夢」だ。

皆さんは、「夢」と聞いて、どんなイメージを抱くだろう。
「夢、まぼろし」と言うがごとく、寝ているときに見る、単なる幻影?
取るに足らない非現実的な絵空事?
睡眠(つまり意識がない、あるいは微弱な状態)のときの脳の生理現象で、それは本人の人生、健康、精神などに寄与することはほとんどない?
「自分は、いったん寝ると熟睡して、朝目が覚めるまで、いっさい記憶がないので、夢はみない」?

あなたは誰かに言うだろうか?
「悪夢に悩まされる? そんなもの早く忘れろ。夢にうなされて眠れないなら、さっさと医者に行って薬でも処方してもらえ」と?

それともあなたには、生涯忘れることのできない夢の記憶があるだろうか。ときどきその夢を思い出す瞬間があり、それにどんな意味があるのか気になっている、ということはあるだろうか?

まあ、夢にそれなりに興味があり、自分がみた夢もそれなりに覚えていて、その意味について知りたい気持ちはあるが、夢という現象はどうにもつかみどころがなく、夢に関わろうとすると、深みにはまりそうで躊躇する、という人は相当数いるだろう。

実は、これは一般人だけではなく、専門の研究者や学者の間の事情(認識)としても、同じことが言えそうだ。それも、日本だけの傾向ではなく、全世界的な傾向として。

●人はなぜ夢をみるのか?

しかし、考えていただきたい。
ならば、なぜ人は夢をみるのか?
ただ、みるだけでなく、なぜそれを覚えていて、ある種のこだわりを持つのか?
それは病理現象なのか?
夢に対して、強い記憶を持ち、強いこだわりを持ち、それがあたかも現実の出来事のように考え、それについて深めようとする人間は病気か?
もしそうなら、私はそうとう深刻な病人だ。
逆に、もしあなたと夢との間に越えられない溝があるなら、あなたは夢という極めて個人的な現象を、あたかも他人事であるかのように、自分とは縁遠いものであるかのようにみなしていることになりはしないか。
それが人間本来の健康な状態と言えるだろうか?

もう一度考えていただきたい。
人間の人生の三分の一は睡眠に費やされる。
そもそも、人は(高等動物は、と言うべきか)なぜ、何のために寝るのか?
疲れをとるため? 気分のリフレッシュのため? ある種の生命維持(ホメオスタシス)のため?
それだけの理由なら、夢をみる「必要」はない。
睡眠のメカニズムにちょっと詳しい人なら知っているはずだが、人間の一晩の眠りにはリズムがあり、熟睡状態(いわゆる深い眠り)とREM睡眠(浅い眠り)が交互に繰り返される。主にそのREM睡眠のときに人は夢をみる、ということになっている。

そもそも夢はみる必要がないものだろうか。
REM睡眠のときには、脳が否応なく動いてしまうので、人は仕方なく夢をみるのだろうか。
神は人間に夢という「不要」なものを「賦与」したのだろうか?
フロイトやユングは余計なことに着手してしまったのだろうか?
彼らは、人間にとっての「パンドラの箱」を開けてしまったのだろうか?

いや、そうではなく、夢にはもっと重要な機能、重要な目的があるとしたら、生物的・生理的な意味合い以上に、もっと心理的・精神的な・・・?
フロイトやユングのような先達の学問的研究成果と、私たち一般人の生活とは、どのように関わり合うのだろう?

多少なりとも夢に興味があり、その意味について知りたいという知的好奇心をお持ちの方は、身に覚えがあるかもしれないが、そもそもなぜ自分の夢に、見知らぬ他人がはっきりとしたイメージを伴って登場するのか、いや、逆にこちらが一方的に顔だけ知っている有名人が登場するのはなぜか? あるいは動物や、気味の悪い怪物までも・・・?
まるで、自分の中に現実世界とは異なるもうひとつの「世界」があって、その中で夢が展開しているかのようではないか?

疑問は尽きない。
人類は、もうそろそろこうした疑問にはっきりとした答えを出すべきときだ。
いや、実はもう答えは出ている。少なくとも答えの出し方はわかっている。
では、それがなぜ一般の私たちのごく普通の認識として定着していないのか?
何が人間の自己認識にベールをかぶせているのだろう?

あなたは信じるだろうか、もし、疲れをとったり、生命の恒常性維持のため、という睡眠の生理学的機能を犠牲にしてまで、ある意味、夢をみるために寝る(とてもまともには寝られないが)という人がいるとしたら・・・?
あなたは信じるだろうか、世界の辺境・秘境と呼ばれる場所には、夢を共同体全体の共有財産とみなし、夢の教えに従ってその日一日の行動を決定し、夢の教えに従って人間として成長するような少数民族が存在するとしたら・・・?

これらの疑問に、私はわが師(その半生、そのテーマ、その人物像)を紹介することによって、ひとつひとつ答えを出していきたいと思う。

●師の覚悟

わが師はつい最近(2019年)、長年連れ添った伴侶を亡くされた。旦那さんは共同研究者でもあった。
それは大きな人生のターニングポイントであるに違いない。
師は、ある種の身辺整理を強いられた。
まずは、故人の遺品整理・・・。
師は、旦那さんの遺品に「とても一人では手をつける気になれない」とおっしゃるので、私はそれに一日立ち会った。
人がこの世に残した遺品の数々に触れることは、一種のカオス体験だ。その肉体、その生理、その感情、その思考・・・一個人を構成する、交じり合うようで合わない、一貫性があるようでバラバラなそれらの要素が物質化したものが、混然一体となってそこに横たわっている。これはひとつの混沌とした小宇宙だ。もちろん、そんなものに筋の通る秩序をもたらすことなどできようはずもない。

このまま放っておいたら、すべて処分することになるというそのカオスから、私はとりあえず自分の興味がありそうなものをピックアップさせていただくことに徹し、それらを「形見分け」としていただいた。
師は最後に、「これで思い残すことはなくなった」とおっしゃった。

その後、しばらくして師から連絡があり、物理的な整理が一段落したので、今度は自分のそれまでの人生の総括を始めたという。
今回、久しぶりにお会いして、そのあたりのお話をゆっくり聞かせていただく機会に恵まれた。
師は、自分の今までの半生を、大きな節目となったターニングポイントごとにカテゴライズしてみた結果、第七章までが完結し、すでに第八章が始まっていることがわかったという。
その最初の大きな節目は結婚であり、第七章は夫との死別で完結した。
第六章の節目には、自らの癌体験もあった。

壮絶だ。
とても一人の人間の人生経験とは思えない。
旦那さんともども、このご夫婦と付き合いのあった私は、改めてお二人の結婚生活について聞かされてみて、思うところがある。
どうもこのお二人は、人が避けて通ろうとするような苦労や障害を自ら率先して買って出ているようなところがある。もちろん、伊達や酔狂でできることではない。そこには、他人には計り知れない深淵な魂の目的があるのだろうが、とりあえずそれは置いておこう。

いずれにしろ師は、ご自分の人生の最終章になるかもしれない大切なこの時を、腹をくくってあることに捧げようとなさるお積もりのようだ。弟子としては、黙って後をついていくしかない。

このあたりで、師と私の関係性について簡単に触れておこう。

ユング派の心理学者ジェイムズ・ヒルマンは、その著書「魂のコード」の中で、様々な偉人の生涯を例にとり、それらの人たちが、ある時期、生涯を通しての「指導者」あるいは「師」と呼べる人物と出会い、それをきっかけに大きく飛躍する様を紹介している。その師と弟子は、魂を通わせるソウルメイトとも呼ぶべき関係性だという。
師と私の関係性も、これに近いのではないかと思う。

私は若い頃から、師と呼べるような人物と出会えるものなら出会いたいと密かに願っていたが、そういう機会に恵まれなかったし、そういう出会いをどのように求めたらいいのかさえもわからなかった。仕方がないので、私は書物の中にそれを求めた。
しかし、もちろん生身の人間でなければ「ソウルメイト」というところまではいけない。
悶々と人生を送る中、仕事も家庭生活も行き詰り、私自身が文字通り大きなターニングポイントにさしかかったとき、師と出会った。私はすでに40代に入っていた。

●わが師へのイントロダクション

私が師に魅力を感じた理由はいくつかある。

もちろん第一は、「夢」という共通の関心事があったこと。いや、関心事どころか、師はそれ専門の研究者だったわけで、その師との出会いで、私自身も「夢」が自分のライフテーマであると初めて意識したのだ。

もう一つは、師が、いわゆる「象牙の塔」の住人ではなく、いかなる学派にも属さない「在野」の人だった、ということ。
師は自らの学問のあり方を「書斎学」ではなく「野外学」と呼ぶ。夢を扱うことは、何はともあれ自分自身の内面へ分け入る「フィールドワーク」だったのだ。その成果はまさに「実践知」であり「経験知」である。師が人に告げるのは、自らの精神・身体をもって立証してきたことばかりだ。

「夢」というテーマを研究するとなると、やれフロイトだ、やれユングだ、ということになるが、師はそういう先達の教えを基礎(あるいは参考)としてはいるものの、その上にまったく別のオリジナルの「家」を建てている。その様式も、既存のものの借用ではなく、自分で開拓したものだ。
こんな言い方が許されるなら、師をめぐるそんな「ガラパゴス」的な環境がかえって幸いし、師の研究はどんな学派も真似できない独自の進化を遂げたと言えるだろう。
学問とは「学を問う」ことであって、「学に取り込まれる」ことではない。

啓蒙主義以降の近代西洋科学の世界は、客観性、再現性を重視してきた。
「夢」を科学的な研究テーマとする場合も、相変わらずこの古い科学的態度がはびこっているようだが、そもそも夢は客観的でも再現的でもない。だから、現在の夢研究の世界(とくに日本)では、夢の意味内容よりも、生理学的な側面が偏重されているという事情がいまだにあるようだ。

そもそも、フロイトやユングにしても、夢を病理学的な研究の一環として扱うことがスタートだったはずだ。つまり、精神を病んだ患者を対象として、彼らがみる夢の意味内容を分析することで、病理の治療に役立たせようということだっただろう。スタートからして偏向しているのだ。
うっかりして、極端な還元主義に陥るなら、そうしたいわば「一本の病んだ木」の様子を観察することで、森全体を規定することにもなりかねない。
いわんや「夢」自体を病理の一環として扱おうとするとんでもない論理のすり替えが、実はいまだにまかり通っているようだが、それはいずれ師自身に語ってもらうことにする。

「夢」という現象を狭い枠組みから解放し、ごく一般の人が夢といかにつき合うか、というテーマが真剣に語られ始めるには、おそらくトランスパーソナル心理学の出現を待たなければならなかったのだろう。病理分析からスタートした心理学の潮流は、ここへきてようやく夢を、人間性の回復や自己実現の道具として活用するという発想へと至ったようだ。

師と夢との出会いも、このトランスパーソナル心理学が仲人役となったらしい。
ただし師は、トランスパーソナル心理学の学派ですらない。むしろ、日本におけるトランスパーソナル心理学の研究者たちが夢を研究テーマにするのと並行して、師は独自の夢研究をスタートさせたのである。そういう意味で、師はこの分野の、少なくとも日本におけるパイオニアなのだ(私は世界的なさきがけだと思っているが)。だから、トランスパーソナル心理学の研究者たちは、わが師の研究成果から多くを学ぶことになるだろう。
これが大袈裟な物言いでないことを、これから時間をかけて証明していこうと思っている。

師のユニークなところはまだまだある。
実は、夢を掘り下げ始めると、人間精神のとんでもない深みにまで達する。それはたとえばシャーマニズムの分野が対象とするような極めて特殊な意識状態や世界観まで問題にすることとなる。言い換えればそれは、ネイティブや密教の世界観でもあるが、師はそうした分野にも果敢に取り組み、「自家薬籠中」のものとしている。これは、そんじょそこらの研究者(象牙の塔の住人)には逆立ちしても真似できないことだ。

ここから先は、師自身に語っていただこう。
実は、2017年に、私はわが師を相手にロングインタビューを試みた。その様子はビデオに収められているが、師はそれを発表することに当時難色を示した。まだいろいろな意味で準備ができていない、という判断だったらしい。
師の人生が第八章に突入した今、そして、師が研究をスタートさせた30年前と比べて、今が本質的に何ら進歩していない現実を実感し、そうした人間の意識進化の遅れを反映するかのように、信じられない犯罪や事故が多発する実情に危機感を募らせた結果、師は「文字情報だったら」という条件つきで、内容の公開を解禁してくださった。

そのインタビューの内容を、いくつかに章分けして発表していこう。

<目次>

第一章 ドリームワーク事始め

第一節 夢は占いの対象ではない
第二節 トランスパーソナル心理学との出会い
第三節 夢を伝統的に活用している部族
第四節 当時の夢講座・夢研究の実態
第五節 手探りで始めた夢研究
第六節 男性性と女性性のバランス
第七節 トータルな丸ごとの自分を生きることの大切さ
第八節 精神分析は精神的なレイプになりかねない
第九節 夢には自分の恥部もさらけ出される
第十節 ニューエイジ運動とドリームワーク
第十一節 夢の臨床はまだまだこれから

第二章 私はこうして修行を積んだ

第一節 過去生で「しまった!」と思ったことを今生で探求している
第二節 ヒプノセラピーで見せられた過去生の記憶でチベットと繋がった
第三節 いちばんつらい時期に後進を育てようとした理由
第四節 「心と体と魂」はそう簡単に統合できない
第五節 「書斎科学」と「野外科学」の違い

第三章 寝て見る夢と叶える夢は繋がっている

第一節 夢の学びの3段階
第二節 「自分を追い詰めるものと向き合うべし」
第三節 視点を変えてストーリーを読み直すことの大切さ
第四節 夢はあなたが気づくまで優しくノックし続ける
第五節 寝て見る夢と叶える夢はリンクしている
第六節 夢にタイトルをつけて一ヵ月単位で流れを見る
第七節 自我がどんなに否定しても夢はあなたの本心を知っている
第八節 すべての人が自分の中の残虐性を認めない限り世界に平和は訪れない
第九節 現実や夢の中で恐れているものと瞑想の中で戦うことの意義

第四章 究極の夢活用法

第一節 ドリームヘルパー・セレモニー
第二節 悪夢とは自分の根源からやってくる恩恵
第三節 「DI」:夢による問題解決技法
第四節 DI技法は思いもよらない解決策を提示してくれる
第五節 切羽詰まったときに夢が最後のヒントをくれる
第六節 予知夢は誰でも見る

第一章 ドリームワーク事始め

●第一章第一節 夢は占いの対象ではない

O/K:本日はよろしくお願い致します。

K:私は大高ゆうこさんの弟子ということで、主に40代初めのときに集中的に夢を学ばせて頂きました。全体の事情はわかりませんが、私の見る限りではおそらく、日本の夢の臨床の分野での研究者として、大高ゆうこさんは第一人者ではないかと思います。

O:恐れ入ります。

K:アカデミズムの世界で大学の先生クラスの人たちによる生理学的な意味での睡眠とか夢という部分の研究は、だいぶなされているとは思いますが、夢の意味内容というところまでは、なかなか研究は踏み込んで行っていないという事情があると思います。その辺はどうでしょうか。

O:特に日本の場合は、夢というと夢占いとか夢判断というところに終始してしまうのですが、夢自体を病理分析、精神分析のツールとして使うのではなく、一般の方が創造性の開発とか問題解決に使うという、そういった研究は全くと言っていいほどなされていなかったと思います。

K:そうですね。若い人は不思議な夢をみて「どんな意味があるのだろう」という興味はあるのだろうけども、それをちょっとした夢占いに掛けてみたりとか、せいぜい夢辞典を紐解いてシンボルの意味をみたりとか、その程度のことだと思います。

O:いわゆる神社でおみくじを引くみたいな感じで、気になる夢のキーワードを調べてみる。それで納得がいけばそれはそれでいいのですが、だいたいは納得がいかない。なぜならば、例えば犬が出てくる夢をみたといっても、その犬を昔飼っていてかわいがっていた人と、噛まれたことがあり犬を怖がっている人がみる夢の中の犬の意味というのは全く違うものです。本当にその夢の意味を解けるのは、統計的なことではなく、その夢をみた本人だけです。それが、私のやっているドリームワークの大きな立場です。

●第一章第二節 トランスパーソナル心理学との出会い

K:本当に夢というのは掴みどころがなく、それだけに不思議で、掘り下げると奥が深いのですが、そもそもゆうこさんが夢に興味をお持ちになった、専門的に研究してみたいなと思われたのは、だいたいいつ頃からなのでしょうか。

O:たいてい「小さいときから夢を覚えていたから」と思われるのですが、それが全然夢は覚えていませんでした。興味も全然なかったです。
スロバキア人のスタニスラフ・グロフ博士という方が開発した一つの呼吸法で、「ホロトロピック・ブレスワーク」というトランスパーソナル心理学のメソッドの一つがあるのですが、これは全身の細胞を活性化させるとともに、自分が抱えているトラウマを解放するきっかけになる、というものです。その、ダイナマイトで岩盤を爆発させるみたいなワークショップに、30代の頃たまたま夫と一緒に出ることになって、本当に衝撃的な体験をしました。
そして、初めてトランスパーソナル心理学を日本に持ち込んだユウサイキア研究所の能登さんご夫妻との出会いで、トランスパーソナル心理学を知りました。その後トランスパーソナル心理学自体に興味を持って、能登さんご夫妻がなさるドリームワークの入門講座に出席しました。それは夢占いといった世界とは全く違っていました。

●第一章第三節 夢を伝統的に活用している部族

O:「夢学」(旧題:「夢クリニック」)という本があるのですけど、これがその講座で参考書的に使われていた本なのですけども、これに出てくるセノイ族というマレーシアの部族がいるのですけども、その方たちというのは毎朝各家のお父さんたちが族長のところに集まって、一家のそれぞれがみた夢をシェアするのです。
シェアした夢を検討して、「明日何が起こる」「こういう危険が迫っている」とか、例えばトラに襲われた夢をみた子供がいるという報告があったら、「じゃあ、次にそのトラの夢をみたら戦え」という教えが100年以上続いていて、その部族の中には争いがない、精神的疾患を持つ人がその100年以上の間に現れたことがないそうです。それがたぶん夢をシェアする習慣に基づいているのではないか、というわけです。
そこに私はたいへん惹かれて、そんなに夢というのが力を持っているのであれば、これは研究する価値があるなと思いました。まだこの時点では研究するという発想ではなくて、能登さんご夫妻から学ぶ価値があるなと思いました。

●第一章第四節 当時の夢講座・夢研究の実態

O:最初は30人くらい受講生がいました。授業が月1回で、1年の間に私と夫だけになってしまいました。その夢の講座に出るための前提条件として、毎晩みる夢を書くというのが課題でした。「夢というのは、大事にすれば向こうから近づいてくる」という考えを持っている先生で、その時点まで私は夢を全く覚えていなかったです。しかしそこからどんどん夢を覚えるようになって、書くようになって、夢を書いたものが溜まっていって、「これはどうするのですか」と聞いたら、「どういう風に活用するかは自分で考えろ」と言われたのです。
今思うと能登さんご夫妻というのは、ホロトロピック・ブレスワークのファシリテーターとして日本人で先端を行っている第一人者なのですが、ドリームワークについては専門家ではなかったので、「そこから先は自分でやれ」と言われました。
そこでいろいろ考えて、自分の夢日記をどうやって解釈するかという手法を、前例がないから自分で考えて開発しようと思いました。いろいろな手法を考えて、そしたら次々と発見がありました。自分なりのオリジナルのワークを作っていって、毎朝書いておいた夢を見直してオリジナルのワークに当てはめてみて、「これは使える、使えない」とやっていきました。それを夫にもシェアして、新しいワークを作るにはどうしたらよいか、というのを始めました。

●第一章第五節 手探りで始めた夢研究

O:最初から能登さんご夫妻に言われていたのは、夢というのはそれ自体で、ものすごく大きいエネルギーを持っているから、夢に対して自分がどういう立場で対峙するかということを考えるべきだ、ということです。
その意味というのは、精神分析医として夢と対峙する、それから人の夢をカウンセリングする、自分の自己実現のために使う、臨床家としてデータを集め、研究開発法を考える、というそこら辺の立場をしっかりしろと言われました。
心理学の中にいろいろ学派というものはあるのですが、夢分析というのはその時点では添え物にすぎなくて、夢学会もありませんでした。いろいろ考えたのですが、学派に入ってしまうと、その学派の考え方の枠の中で夢を解釈するようになってしまうという懸念があったので、私はあえて学派には入らないと決めました。
研究開発するにあたり、この「夢学」という本の(著者である)パトリシア・ガーフィールド博士、国際夢研究協会の当時の会長であり創設者であるこの先生にコンタクトを取りました。この先生はもともと文化人類学者で、文化人類学の分類法を活用していました。私は成城大学で学生のとき、柳田國男先生の民俗学を専攻していたので、ある程度文化人類学的な調査の仕方というのがわかっていたので、この「夢学」という本をたいへん評価していたのです。
国際夢研究協会のその頃の会長と副会長の「ドリームキャッチング 子どもの心を掴む本・癒す本」というのを翻訳して監修してみようということで、その頃ドリームワークを生徒として学んでいた方と一緒に上巻だけ(翻訳して)出した、という経緯もあります。

●第一章第六節 男性性と女性性のバランス

K:ドリームワークといっても本当に世界的に未開拓の分野で、さぞかし手探りでやられたと思うのですけども、発想として「こういうワークをやれば夢が読み解けるはずだ」みたいな、そういう先人の業績みたいなものはなかったと思うのですが、そこへオリジナルでいろいろな手法を開発するというときに、どういうことがポイントもしくは基準みたいなものとしてあったのですか。

O:そうですね。おっしゃる通りで、テンプレートがありませんでした。だから、私が書き溜めた夢日記をどうやって使うかというのを考えて、最初のワークは、全部の夢の中に出てくる男女の比率をグラフにすることと、自分に対して好意的なシチュエーションと敵対するようなシチュエーションというのを、同じようにグラフにしてみました。それが、3ヶ月後にはどう変化しているか、というのが自分で考えた最初のワークでした。
心理学の中には前提として、「自分が今現在女性だったとしても、心理的には男性性の部分もあるし女性性の部分もある」という考え方があります。

K:それは主にユングの考え方ですか。

O:そうですね。ユング心理学の考え方に近いですけども、それを前提にすると、たいていはドリームワークをやる前とか当初は、どっちかに偏っています。それが3ヶ月後とかにワークをやっていくと、だんだん比率が五分五分に近くなっていきます。

K:男性の登場回数と女性の登場回数が?

O:そうです。それはどういうふうに評価するのかというと、自分の中にある男性性と女性性、現在の肉体とは関係ない部分ですが、そういう性質を持っているということを自分自身がどれほど認めていくかということなのです。
男性性に偏っていても自分らしく生きていけないことも多いし、女性性に偏っていたとしてもそれはそれでいろいろな問題が出てきます。そこら辺は、ユングの学派の考えるアーキタイプ(元型)と言います。女性が持っている女性性「グレートマザー」という元型で言うと、女性性という部分には「慈しみ育てる」という素晴らしい面もあるけれども、「抱きしめすぎて絞め殺してしまう」という部分もあるのです。そういう相反する女性性を自分は持っていることを無自覚にしていると、いろいろな事件に繋がったり、トータルな自分を生きられないことになります。
一方男性性も、「先端を行く」「勇気を持つ」とかそういうのが男性性を発揮するときのプラスの面ですが、「闘争的」「傷つける快感」そういうマイナスの部分もある。

●第一章第七節 トータルな丸ごとの自分を生きることの大切さ

O:全ての面を持っているのが自分なのだということをどれほど認められるか、それを全部認められたときに、たぶん人というのはトータルな丸ごとの自分を生きられるのだと思います。だからそういうワークをやっていて、男性性、女性性、大人としてだけではなくても子どもとしての自分、親としての自分、といろいろな面が出てきます。「全ての面を持っていて私なのです」ということを認められると、他の人に対してもそういうふうに認められるようになるのです。ある一面だけを見せてくれる、それをもってその人の全てだというふうに切り捨てるというのは、あまり平和なことではないと思います。

K:だんだんと夢日記をつけて分析していく中で、男女の比率が近づいてきてバランスがとれてきたと思ったときに、何か現実生活とか自分の実際の心理的なことなどに変化はありましたか。

O:今思うとありましたね。それまではわりあい母親のすり込みみたいな、(自分に)子どもがいなかったから余計そうだったのかもしれませんが、母性の部分を夫に対しても飼っていた犬とか猫に対しても強く出しすぎていたな、と感じました。それはそれとして、自分がリーダーになってもよいと自分に許したときに、家事とか自分らしく個性を発揮するということを恐れなくなった、というのがありました。
敵対心を持っている夢の中の登場人物と好意を持ってくれる登場人物などの比率も50%ずつに近づいていきます。本当は敵対心だけを持っている人間はいないし、友好的なだけの人間もいないと思います。30年くらい研究してきてそう思います。先だってP科学会で、「世界の平和はどうやって構築すればよいでしょうか」という質問がありましたけども、やっぱり自分の中にある敵対心と受容性のバランスというのを無意識にしておくのではなくて、そういうものがあるのだと意識することで、相手のことも認められる、というのが基本なのではないかと思います。自分でワークをやっていて思ったことです。

●第一章第八節 精神分析は精神的なレイプになりかねない

K:そこから統計的なデータをとるようになって、どんどん新しい手法、ワークを開発されるわけですけども、そのプロセスを振り返ってみると、結局どういうことだったのですか、何を開発したことになるのでしょうか?

O:たぶん精神分析家とか、いわゆる臨床心理に関わっている人たちが少し勘違いしているのは、自分のことがトータルでわかっていなくてクライアントさんを分析しようとするのは大変に間違っていると思います。おこがましいことだと思います。
私のところにも、いろんなカウンセラーのところを転々として、最後にたどり着いたのが私のところという方がけっこういます。その方たちがおっしゃるのを聞くと、精神分析医にかかって、精神的にレイプされた、ということをおっしゃる女性がたいへん多いです。精神分析だけじゃなく、人に対する言葉というのは、言葉だけでその人を殺すことができると思います。その精神分析を受けた帰りのホームで自殺してしまう人もいます。
たいてい、分析をする側よりも、クライアントさんの方が人生経験が深いのです。悩みが深いから(相談に)来るわけです。(だから、分析医の方は)自分よりも(クライアントさんの方が)悩みが深いのだという認識のもとに、人の心を扱うのでないとダメだと思います。
そいう意味で言うと、私がドリームワークをやり続けて、すごく価値があると思うのは、夢というのが心のいちばん深いところ、いちばん隠しておきたい部分から出てくるからこそ、まずは分析する側がトータルな自分、見たくない自分も認めていく(という前提がある点です)。その上で、悩みを持ってくる方とお話ししないと、逆に傷つけてしまうと思います。
結局ドリームワークのよさというのは、夢判断とかと違って、「あなたの夢はこうですよ」というのではなくて、「その夢の意味を知っているのは、その夢をみたその人だけです」という究極的な自由を認めている手法だという点なのです。そこがとてもユニークだと思います。平等な人間関係のもとにいられるのだなと思います。

●第一章第九節 夢には自分の恥部もさらけ出される

K:ゆうこさんが、例えばそういうマインドレイプみたいなものを受けてきてしまったクライアントの方が目の前に現れたとして、ドリームワークを使うのでしょうけれども、そういうものを運用したり、その人と対したりするときに気をつけていること、ワークショップをやるときもそうでしょうけど、そういうときにモットーとしていることはあるのでしょうか。

O:けっこう、テレビなんかでタレントさんとかが、夢占い・夢判断的な感じで自分の夢をお話しになっていますが、私はそれを非常に危険なことだと思っています。なので、私がいちばんワークショップとかで大事にしていることは、「ここは安全な場です」ということです。「ここで話されるあなたのいちばん心の深いところのお話というのは、誰も外に漏らしません。私ですら、それを聞いたとしても私の物ではないのです」ということ。ワークではワークシートなどを使うのですが、私は一切受け取らないことにしています。全部夢をみた本人が持ち帰るようにしています。それがいちばん守ってきたことです。

K:やっぱり本当に、その心の深いところにある内臓みたいなものをさらけ出すわけですから、そういう自覚がない人もいるのだけれども、見えてしまうわけですからね。

O:これがけっこう微妙なところがあって、講座とか連続でやっていて、(参加者は)最初の頃は、自分の深いところをさらけ出しているという自覚がないのです。しかしだんだんやっていくうちに、「自分の恥ずべきところも夢に現れている、これをみんなの前で話すことになるのか」ということで、来なくなる方もいます。
あとは逆に、夢を作ってしまう人もいます。例えば「天使の夢をみた」とか、「イエス様とお話しした」とか、そういう夢をあえて作って、みなさんに「すごいね!」と言って欲しい、という方もいらっしゃいます。それは聞けばわかるのです、辻褄が合いすぎているから。夢は、わけがわからないで当たり前なのです。わけがわからないから夢であり、そのわけがわからない夢同士を繋いで、わけがわからないところを埋めていく作業というのがドリームワークなのです。あまりにも理路整然としているのは逆に、「お話を作っているな」と気づくこともあります。

●第一章第十節 ニューエイジ運動とドリームワーク

K:もともと一つのドリームワークの成り立ちとして、例えば戦争で傷ついた兵士が国に戻ってきて一種の精神障害を起こしたり、薬物中毒の人とかアルコール中毒の人とか、何かしらセラピーが必要な状態の人たち、そういう人がその場でみた夢を話したり、それを分析したりということで癒やされていくことがあったわけですよね。

O:そうですね。「ニューエイジ・ムーブメント」といって、ベトナム戦争以降のアメリカで始まって、ベトナム戦争で傷ついた兵士とかその家族、アメリカの国民全員がそうですけども、その失われた誇りとか傷ついた心を癒すためには、どんな手法を使ったらよいのだろうか、というところから始まっています。その運動の中で心理学の分野、またドリームワークの分野というのが始まったのです。
本当に深刻だったみたいです。ベトナム戦争のときにゲリラと戦ってゲリラを殺した。国に帰れば英雄だったのだけれども、夢でずっと(殺した相手に)追いかけられたり、相手を殺す、あるいは殺されそうになるなどで、睡眠障害を伴ってしまう。
眠りが浅くなって、通常ノンレム睡眠(熟睡)のときは、体は動かないはずが、夢をみながら体が動いてしまう。それで、夢の中で敵に追いかけられて、殺される前に殺すのだと言って、隣に寝ていた奥さんの首を絞めて殺してしまった、という事件が本当にありました。ではそれを、実際に戦争に行かなかった分析医がどうやって分析していくのか。アメリカのベトナム戦争以降の傷というのは大きかったのだと思います。

●第一章第十一節 夢の臨床はまだまだこれから

K:先程ニューエイジ・ムーブメントというお話が出ましたけれども、さっきのグロフのブレスワークなんかが出てきた背景にも「人間性回復運動」という、ニューエイジのベトナム戦争以降の反省のようなことがあったわけですよね。そういう中でドリームワークも出てきて、本当に個人の内面に視点を置いて、そこから人間を見つめていくということが、ようやくできるようになってきた、ということなのでしょうか。

O:難しいところだと思います。というのは、臨床家が育たないと・・・結局、臨床データが先行して、理論が後からついてくるものだと私は思いますので、臨床家が力を持っていないと、なかなか人間の本質みたいなところを解く動きには、実際的には繋がっていかないと思います。

K:今の日本の現状はどうなのでしょうか。臨床家は育っていますか。

O:臨床家は育ってないです。これはなかなか難しいところがあると思います。長年夢占いと比較されて、誤解されて、そういうものとは違うのだと、統計ではないのだと話はしてきているのですけど、夢の深い意味を知るということは、もしかすると自分の隠したいところが露わになるのではないかという密かな怯えに感づいてしまう。そういうのがけっこうあるみたいです。

K:そういう直感は働きますよね、人間としては。

O:そこを乗り越えるにはどうしたらよいかというと、やっぱり一緒に乗り越える仲間の存在がすごく大きいなと思います。

第一章はここまで。
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